今回から本編に入っていきたいと思います。
本書は、フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称される、アルフレット・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「青年と哲人の対話篇」という物語形式を誇るアドラー心理学は、「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学者な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な”答え”を提示します。この世界のひとつの真理とも言うべき、アドラーの思想を知って、あなたのこれからの人生はどう変わるのか?もしくは、なにも変わらないのか・・・。さあ、青年と共に「扉」の先へと進みましょう-。
冒頭の文章、ここでは考え方の一つにアドラー心理学がある。アドラーがすべてではないということである。良いところを自分の中にうまく残すことが大切。これからまとめる内容にも通じてくる。
第一夜 トラウマを否定せよ
「知られざる「第三の巨頭」」
オーストリア出身のアルフレッド・アドラーが20世紀初頭に創設した、まったく新しい心理学です。わが国では現在、その創始者の名をとって「アドラー心理学」と呼ぶことが一般的になっています。
独自の理論に基づく「個人心理学」を提唱します。
アドラー自身は「わたしの名前を誰も思い出さなくなるときがくるかもしれない。アドラー派が存在したことすら、忘れられてしまうまもしれない。」しかし彼は、それでもかまわない、といいます。アドラー派の存在そのものが忘れられること、それは彼の思想が一学問分野から脱皮して、人々のコモンセンス(共通感覚)となることを意味するからです。
忘れられた方が良い、それは共通認識になれた時だからだ。教員というのもある意味そのような職業かもしない。自分がいらなくなるということは、生徒が成長したということである。そんな、教員になりたいと思う。
「なぜ「人は変われる」なのか」
あまねく人の「現在」が、「過去」の出来事によって規定されるのだとすれば、おかしなことになるのでは。
アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。
我々は原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。
過去に原因を生み出すことは、現在の自分に言い訳をしていることになるということが、確かに「学生の時にもっと勉強していれば」とか「裕福な家に生まれていれば」とか無意味である。なるほど。
「トラウマは、存在しない」
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。
自分の経験によって決定されているのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
われわれはみな、なにかしらの「目的」に沿って生きている。
自ら生きづらく生きている人は、この考え方が足りないと思う。トラウマを作っているのもまた自分なのである。いじめの問題も定義になっているが、受け手の感覚が優勢される。ということは、いじめなんてものがないと仮定して、だれも知らなければ経験に「いじめ」という意味を持ち得ないので全て解決できるのではないか。全ては自分の問題だということ。
「人は怒りを捏造する」
若者はいう、
昨日の午後、喫茶店で本を読んでいたとき、通りかかったウェイターが私の上着にコーヒーをこぼしていました。カッとなった私は、思わず大声で怒鳴りつけました。ここに目的とやらが入り込む余地はありません。原因ありきの行動でしょう?
哲人はいう、
あなたは大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのだ。
怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。
私も日常生活で怒りという感情はでてこない。それは、私が生徒に何か伝たえるという目的を達成するために怒りという感情を使用していないということでもある。すぐに怒りという感情が出てくる教員もいるけど、「私は、無能です。」と公表しているようなものだ。
「過去に支配されない生き方」
ニヒリズム(虚無主義):①すべての事象の根底に虚無を見出し、何物も真に存在せず、また認識もでいなとする立場。②既存の価値系や権威をすべて否定する思想や態度。
アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想であり、哲学なのです。
わたしも、読み進めていくなかで、何か虚しい感覚に陥ってきました。確かにアドラー心理学は筋が通っているし、みんなが考え方を変えれば幸せになるとは思うけど・・・。私も「嫌われる勇気」を持っていないのかもしてない。
今回は、第一夜の前半をまとめました。新しい考え方であるという認識はもてますがイマイチ納得できない部分もまだあるようです。次回さらにアドラーの世界に浸かってみましょう。
