今回は、第二夜の内容に入っていきたいと思います。
第二夜 すべての悩みは対人関係
「なぜ自分のことが嫌いなのか」
赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって・・」と、可能性のなかに生きることができる。
「勇気づけ」
他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に恐れているからなのです。
あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのです。
「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない。」
私も、自分の苦手分野に挑戦しないのは、自分に可能性を残しておきたいという気持ちがあるからだ。勇気づけをして、今年度は苦手に着手しなければいけないか。
「すべての悩みは「対人関係の悩み」である」
我々は孤独を感じるのにも、他者を必要とします。
「劣等感は、主観的な思い込み」
アドラーの使ったドイツ語では、劣等感のことを「Minderwertigkeigrfuhl」といいます。これは「価値 wert」と「より少ない minder」「感覚 Gefuhl」という意味です。つまり劣等感とは、自らへの価値判断に関わる言葉なのです。
「言い訳としての劣等コンプレックス」
まず、人は無力あ存在としてこの世に生を受けます。そして、その無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。
アドラーは「優越性の欲求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています。劣等感も、使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となるのです。
「劣等感」と「劣等コンプレックス」も、混合しないようにしっかり分けて考えなければなりません。
劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある言い訳に使いはじめた状態のことを指します。
「見かけの因果律」
本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大は因果間駅があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
単純に、一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみーたとえば遊びや趣味の時間ーを犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える”勇気”を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしてもいまのままでいたほうが楽なのです。
見せかけの因果律については私も教育現場で感じることがたくさんあります。「最近の若者論」も同じだと思います。人間とは他人を偏見で見るものなのだと。しかし、せめて自分自信ぐらい自分のことは偏見なく見れるようにしておかないといけないなと思いました。
「自慢する人は、劣等感を感じている」
「優越コンプレックス」=「権威づけ」
あたかも自分が優れてるかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。
不幸自慢
生い立ちなど、自らに降りかかった不幸を、まるで自慢するかのように語る人。そして他者が慰めようとしたり、変化を促そうとしても「あなたにはわたしの気持ちがわからない」と救いの手を払いのけるような人です。
こうして人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。
アドラーは「わたしたちは文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」と指摘しているほどです。
自らん不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。
私自身もどこかに「大学野球をしていない。」「全国大会にでていない。」だどの劣等感を自分の武器にしているところがあると思う。もうそれはやめなければいけいない。不幸自慢は自分自身には絶対してはいけない。
「人生は他者との競争ではない」
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
他者との間にある違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。
知識や経験の量、それからとれる責任の量については、違いがあるでしょう。
しかし、社会には他人と比べなければいけないことがたくさんある。そこで、勝つことすべてに価値があるわけではないが、勝つことがないと自分の自信もなくなってくる。
「お前の顔を気にしているのはお前だけ」
これはいつも私も意識していること。他人は大して他人に興味がない。
以上、今回は第二夜の前半をまとめてみた。私個人としては「劣等コンプレックス」のはなしと不幸自慢の話は身にしみた。参考にして行きたい。
